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[ リンチ殺人 ] 埼玉県警 機動隊の“殺人訓練”―― 隊員を何度もプールに沈め溺死に - I巡査部長は「佐々木をやりますよ」と発言 URL

2016/03/29 (Tue) 23:07:16


[ リンチ殺人 ] 埼玉県警 機動隊の“殺人訓練”―― 隊員を何度もプールに沈め溺死に
訓練指揮官 I巡査部長は、事前に「佐々木をやりますよ」と不穏当な発言



週刊金曜日 2015年8月6日10:32AM 



水深3メートルのプールの底まで繰り返し力ずくで沈め、動かなくなると引き上げて放置する。

殺人、または拷問死というほかない残虐な事件が埼玉県警で起きた。


埼玉県警機動隊「水難救助隊」の新人隊員・佐々木俊一巡査(享年26)は、2012年6月29日、朝霞市の機動隊のプールで潜水「訓練」中、溺死した。

遺族の調査で浮かんできたのは、「訓練」に名を借りたリンチだった。



俊一さんは機動隊員の暴行によって死亡したとして、母・千春さんら遺族が、今年6月28日、埼玉県や救難救助隊の巡査、巡査部長、警部補ら4人を相手取り、総額約1億9000万円の損害賠償を求める国家賠償請求訴訟をさいたま地方裁判所に起こした。


「真相を知りたい。被告の警察官たちには正直な話をしてほしい」


翌29日、命日に開いた記者会見で遺族は涙ながらに語った。


遺族や弁護団(野本夏生弁護団長)によれば、主に警察から聞き取った事実をもとに判明した経緯は次のとおりである。



12年6月29日午後4時ごろ、基礎訓練に続き、「完装泳法」の訓練に移った。
空気ボンベ、シュノーケル、足ヒレなど重量38キロの装備を身につけたまま、ボンベの空気を使わずシュノーケル呼吸のみで、潜ったり立ち泳ぎをする訓練だ。



俊一さんは変形性膝関節症で足が痛かった。訓練開始からまもなく、プールの浅い部分(水深1・2メートル)に移って足をつき、訓練中止を申し出た。痛みのせいで立ち泳ぎが続けられない。



だが、指揮官のI巡査部長は訓練続行を命じた。俊一さんはやむなく泳ぎ続けた。しかし、やはり痛い。とうとうプール内壁に取り付けられたはしごをつかんだ。そして中止させてほしいと訴えた。



するとプールサイドにいたN巡査部長が、俊一さんの顔を足で何度も踏み「佐々木、つかむんじゃねえよ」と怒鳴った。


そして、「無理です」と繰り返す俊一さんを力ずくではしごから引きはがした。俊一さんはパニック状態に陥った。


続いて、水に入っていた指導員のW巡査が俊一さんをプールの深い部分に連れていき、背後から両肩に手を置き、体重をかけて水深3メートルの底まで沈めた。5、6秒かけて浮いてくるとまた同じ要領で沈めた。I巡査部長の指示だった。



俊一さんは水中メガネとシュノーケルを顔に着けたままはずすことは許されなかった。シュノーケルの管内や水中メガネの中に水が入り、呼吸ができなかったとみられる。


4回ほど沈められた結果、俊一さんは水中で動かなくなった。すると、そのまま10秒ほど放置され、ようやくプールサイドに引き上げられた。呼吸や心拍の確認はしなかった。人工呼吸もしていない。そればかりか「死んだふりか」などと言って往復びんたをした隊員もいた――。


119番通報は引き上げから8分後。俊一さんは病院に運ばれたが死亡が確認された。司法解剖の結果、死因は溺死。両肺に大量の水が入ったままだった。


【私的制裁の疑い】


埼玉県警によれば、繰り返し沈めた行為は、ボンベの空気が吸えなくなった場合の対処法を学ぶ訓練だったという。

しかしI巡査部長は、事前に「佐々木をやりますよ」と不穏当な発言をしており、私的な制裁だった疑いは濃厚だ。


現在、W巡査が業務上過失致死罪で起訴されている。


もともと俊一さんは東入間署の地域課に所属し、交番勤務を主な仕事としていた。運動は苦手。水に潜って遊んだ経験もない。
機動隊への異動を告げられたのは12年3月。自ら希望したわけではなく、とまどっていた。遺族によれば、訓練は辛そうだった。膝も機動隊に入ってから負傷した。

事件直前には「死ぬかもしれない」と漏らしていた。意識を失ったこともあった。そして、辞めたい旨上司に相談していたという。

辞意を伝えたことに対する見せしめ的な報復の可能性はある。


(三宅勝久・ジャーナリスト、7月24日号)


http://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/?p=5384





「息子は警察に殺された」埼玉県警水難救助部隊の“殺人訓練”、息継ぎさせず繰り返し沈め溺死


13:41 08/07 2015 三宅勝久



プールでの「訓練」中、息継ぎなしで繰り返し沈められて溺死した埼玉県警機動隊「水難救助部隊」新
隊員・佐々木俊一さんの遺影を手に記者会見する遺族と代理人弁護士。1億9000万円の賠償を求める国家賠償請求訴訟をさいたま地裁に起こした(2015年6月29日、埼玉県弁護士会)。


 息継ぎをさせないまま水深3メートルのプールに繰り返し沈め、溺れて動かなくなっても「死んだふりか」と往復びんたをして放置、溺死させた--。

暴力団かマフィアのリンチ殺人を彷彿させる凄惨な事件が、警察内部で起きた。
埼玉県警機動隊「水難救助部隊」の新人隊員だった佐々木俊一さん(享年26)は、2012年6月29日、プールで訓練中、冒頭のような状況で死亡した。
殺されたも同然と遺族が憤るのは当然。だが埼玉県警は「私的制裁ではない。あくまで訓練だった

」と強弁、さいたま地検も、警察の肩を持つかのように、末端の隊員一人を業務上過失致死罪で在宅起訴しただけで幕引きを試みた。

事件から3年、不誠実な対応に業を煮やした遺族は埼玉県と警察官4人を相手取り国家賠償請求訴訟を起こした。息子の元に行きたいと何度も思いつめたという母の千春さんは訴える。


「息子は集団による暴行で殺されました。絶対に許すことはできません」



【Digest】

◇呼吸させずに繰り返し沈める
◇「佐々木、つかむんじゃねえよ」
◇息をさせていなかった!
◇「佐々木、やっていいですか」
◇希望していなかった機動隊入り
◇呼吸させずに繰り返し沈める

 「正直な話をしてほしいです。人間として正直な話をしてほしい。それだけです」


 6月29日、埼玉県弁護士会の一室で開いた記者会見で、佐々木俊一巡査(享年26)の母・千春さんは涙声で訴えた。

埼玉県警機動隊「水難救助隊」の新人隊員だった佐々木巡査が訓練中に溺死してからちょうど3年、千春さんら遺族は、埼玉県と救助隊の警察官4人を相手取り、慰謝料や逸失利益など約1億9000万円の賠償を求める国家賠償請求訴訟をさいたま地裁に起こした(さいたま地裁平成27年ワ1400号、原告主任代理人古城英俊弁護士)。



 警察官ら4人の共謀により、制裁目的の暴行を加えて死亡させたとして、逸失利益、慰謝料、遺族の慰謝料を払う責任があるとの主張である。


 これに対し、被告・埼玉県警側は8月5日の第1回口頭弁論で、「請求をいずれも棄却する、との判決を求める」との答弁書を陳述し、全面的に争う姿勢を明らかにした。


次回弁論は9月30日午後11時から同地裁で開かれる(志田原信三裁判長、鈴木拓児・野口由佳子各陪席裁判官)。


 俊一さんの身に何があったのか--。真相究明と責任追及に向けた遺族のあらたな闘いがはじまった。


 さて、遺族が提訴を決断するまでの道のりについて触れたい。

機動隊の敷地内で起きた事件である以上、事件の詳細は現場にいた警察官しか知らない。
しかし埼玉県警は遺族に対して、具体的な説明をなかなかしようとはしなかった。

口の固い警察に対して遺族は粘り強く食い下がった。そのかいあってようやく事件の片鱗が見えてきたのは、事件後半年も経った2012年12月からである。


 もっぱら警察の説明によれば、ことの経緯はおよそ以下のとおりだ。
 


 事件は2012年6月29日、埼玉県朝霞市にある埼玉県警機動隊の訓練用プールで起きた。
午後1時半からはじめた水中訓練が終盤に移り、「完装泳法」というメニューになった。
空気ボンベやウエイト(重り)、足ヒレなど総重量38キロもある潜水道具を身につけて水に入り、立ち泳ぎなどをする基礎訓練だ。

ボンベの空気は使わず、呼吸はシュノーケルで行う。


 38キロもの装備をまとった状態で水面に浮いたり泳いだりするには、効果的な足かきを続ける必要がある。

佐々木巡査も足かきをして水面に浮こうとしたが、じきに足に痛みを覚えた。連日の激しい訓練でひざを負傷していたのだ。病院で「変形性膝関節症」と診断され、治療も受けている。


 「無理だ…」

 そう判断した佐々木巡査は、プールの浅い部分に移動すると底に立った。訓練プールは水深1・2メートル、3メートル、5メートルの3段階の構造になっている。

佐々木さんが足をついたのは1・2メートル部分だった。そして訓練指揮官をしていたI巡査部長に訴えた。


 「足が痛い。訓練を中止させてほしい」

 だが、この訴えをI巡査部長は拒否した。そして訓練を続けるように命じた。「弱音をはいていると考えた」というのが理由である。






亡くなった佐々木俊一巡査。プールでの訓練でたびたび失神し、「死ぬかもしれない」と漏らしていたという。



◇「佐々木、つかむんじゃねえよ」

 やむなく佐々木巡査は泳ぎ続けようとした。膝が痛くて耐えられない。

やはり無理だ--と、今度はプールの端に寄り、内壁に取り付けられたハシゴをつかんだ。

そしてあらためて訓練中止を申し出た。これをみとがめたのはプールサイドにいた指導員のN巡査部長だった。

 
「佐々木、つかむんじゃねえよ!」


 N巡査部長は大声で怒鳴り、水中マスクとシュノーケルをつけて水面に浮かぶ佐々木巡査の顔面を足で踏みつけ、力づくでハシゴから引きはがした。


 水難救助部隊では、底に足をついたり、ハシゴをつかむ、水中マスクを外すことは「禁止行為」と呼ばれている。佐々木さんが怒鳴られたのはこの禁止行為をしたからだった。

そして禁を破ったことに対する制裁(リンチ)がはじまった.....この続きの文章、および全ての拡大画像は、会員のみに提供されております。




故佐々木俊一巡査の遺族が埼玉県と警察官4人を相手どって国家賠償請求訴訟を起こしたさいたま地方裁判所。被告側は全面的に争う姿勢をみせている。





埼玉県警本部。息をさせずに繰り返し水中に沈めるという行為は、普通に考えればリンチというべきだろう。だが埼玉県警は「訓練」だったとの主張を続けている。



機動隊の警察官6人が書類送検されたが、起訴されたのはわずか1人。

もっとも階級の低いW巡査が業務上過失致死罪に問われている。遺族はとうてい納得できず、息子は警察に暴行を受けて殺されたと訴えている。



佐々木俊一さんが若干26歳で命を落とした埼玉県警機動隊。寮生活で、実家に戻るのはせいぜい月1回だった。運動は苦手で機動隊に異動がきまったときにはとまどっていた。
事件前には警察をやめたいと上司に相談していた。相談を受けた上司がどのような対応をしたのかはいまだ不明だ。




http://www.mynewsjapan.com/reports/2184


これは八紘一宇的ではないか - 町田のたぬちゃん

2016/02/01 (Mon) 11:32:00

"これは八紘一宇的ではないか" 昭和天皇「謝罪詔勅草稿」の発見

文藝春秋刊、加藤恭子
2003年
の115ページに、昭和天皇のことばとして
"これは八紘一宇的ではないか"という語句がでてくる。
ネットで検索したが2016年2月1日現在、0-matchである。
これは、昭和27年5月3日の、講和条約発効と憲法5周年記念式典で
発表予定の天皇の「おことば」の作成準備にかかわるもの(同113ページ)
だという。
式典が2か月後となる3月6日付の田島元宮内省長官の日記に、
「雨 10:15 お召し 御座所おことば八紘一宇的」と記述されているとあり、
この日、天皇に草稿を見せたとき、
「これは八紘一宇的ではないか」と述べたというのだ。
それに続けて加藤は、
「つまり古くさいのではという批評を頂いたのではないだろうか。」と書いている。
その理由として、同日の日記の夕方の部分に
「5-9:30 次長 高尾と官舎にておことばのこと 若い人の感覚」とあるからだという。
この理由の是非はともかく、
古くさいことを言い出すために「八紘一宇的」という言葉を、
あの昭和天皇が使ったことが非常に興味深い。
戦後70年の国会で、この「八紘一宇」を賛美してやまない女性の議員がいたが、
今の政権のトップとその取り巻きの政治家たちの
余りの古さに改めてショックを受けた次第。
あまりの汚さ、もつい最近あったけど。。。

欧州合同原子核研究機関CERNの大型加速器LHCの影響か? - ねこ

2015/03/26 (Thu) 11:57:33

欧州合同原子核研究機関CERNの大型加速器LHCの影響か?

http://book.geocities.jp/conspiracycalendar/02/d/03/0324.html

https://goo.gl/maps/CtZnC

http://www.asahi.com/articles/ASH3D5KFMH3DULBJ01Q.html

http://blog.goo.ne.jp/luca401/e/d3889bcdcf623905ea6f4da70c5c0d89

欧州合同原子核研究機関(CERN)は12日、大型加速器LHCを
従来の2倍近くのエネルギーで3月中にも再稼働する、と発表した。
宇宙の至るところにあるとされながら観測されていない暗黒物質(ダークマター)を
見つけることが目標だ。

強力な電磁場と航空機の墜落を関連付けるサイトもある。

3月24日は、ジュネーブに本部のある世界気象機関WMO設立65周年記念日でもあった。

(仮説を含む)

ブログに移行します - 管理人

2014/07/10 (Thu) 11:59:16

当掲示板を閉鎖し、ブログに移行します。

http://7machidacrash7.blog.fc2.com/

町田平和委員会のブログ
となります。どうぞよろしくお願いいたします。

町田で「解釈改憲」による集団的自衛権容認に反対する意見書否決 - 町田のたぬちゃん

2014/06/30 (Mon) 08:17:16

「解釈改憲」による集団的自衛権容認に反対する意見書
安倍首相は、「集団的自衛権の行使が認められるという判断も政府が適切な形で新しい解釈を明らかにすることによって可能であり、憲法改正が必要だという指摘は必ずしも当たらない」(2月5日、参院予算委員会)などと発言し、解釈改憲によって集団的自衛権の行使容認を進める考えを示した。これは、歴代政権の憲法解釈-現憲法下では集団的自衛権の行使は禁止される-を否定し、「海外で戦争する国」に足を踏み出そうというものである。
また、首相は、「最高の責任者は私だ。私が責任者であって、私たちは選挙で国民から審判を受ける」(2月12日、衆院予算委員会)などと述べ、首相が自由に憲法の解釈を変更できるかのような発言を行った。これは、最高法規としての憲法の在り方、立憲主義を否定する危険な考えである。
2004年6月18日、小泉内閣は、「憲法解釈を便宜的に変更するようなことをするとすれば、政府の憲法解釈ひいては憲法規範そのものに対する国民の信頼が損なわれかねない」との閣議決定を行った。
国民主権の立場で国家権力を制限し、国民の人権を守るのが憲法の本質的役割であり、立憲主義の原理である。このような憲法の本質に照らして、憲法の解釈は権力者の恣意に任せられることがあってはならない。憲法の改定は、国民主権の下、厳格な要件のもとでの国会発議に基づき国民投票にかけられて初めて可能(憲法第96条)である。
集団的自衛権行使容認をめぐる安倍首相の国会答弁に対して、護憲、改憲の立場を超えて、国内外から批判や反対の声が相次いでいる。「立憲国としてとても考えられない」(古賀元自民党幹事長)という声や米紙ニューヨーク・タイムズ2月19日付社説は、「立法主義の観点からは、正道を外れた見解」であり、「法の支配そのものに挑戦するもの」であると報じている。3月17日行われた自民党の総務懇談会では、出席者の中から「党内論議なくして閣議決定に至ってはいけない」という慎重論まで出ている。
また、「九条の会」が昨年10月に発表したアピール「集団的自衛権行使による『戦争する国』づくりに反対する国民の声を」に対して、憲法学者や宗教関係者、俳優など各界の著名人829人(2月14日現在)が賛同しているように、集団的自衛権行使に反対する国民世論はさらに高まっている。
よって、町田市議会は、立憲主義を否定する「解釈改憲」による集団的自衛権容認に反対するものである。
以上、地方自治法第99条の規定に基づいて意見書を提出する。


上記の議員提出議案は、自民党市議全員、公明市議全員(一人は議長で採択に不参加)、保守連合(4名全員)の反対、まちだ市民クラブ(民主、社民、生活者ネット、維新)全員の賛成、共産党全員賛成、で、21人反対
14人賛成となり、不採択とされました。
 お隣の多摩市で、公明党市議5名中4名が閣議決定案に賛成しなかったのに、町田では残念な結果でした。

ちなみに、「ブラックバイト」から学生生活を守るための対策を求める意見書、国庫負担による義務教育「少人数学級の早期拡充」に関する意見書、福井地裁の判決を重く受けとめ、原発再稼働の中止を求める意見書、東京都議会において、あらゆる立場にある人の尊厳と人格が守られ、品位ある議会運営を求めると共に、より一層の女性支援及び少子化施策の推進を求める意見書は、いずれも可決されています。

転載です - 町田のたぬちゃん

2014/06/29 (Sun) 12:23:02

毎日新聞が27、28両日に実施した全国世論調査で、
日本が集団的自衛権を行使できるようにした場合、
他国の戦争に巻き込まれる恐れがあると思うか聞いたところ、「思う」が71%で、
「思わない」の19%を大きく上回った。

政府は行使を限定すると説明しているが、範囲が拡大して戦争につながることへの危機感が強いことがうかがえる。
【仙石恭】(毎日新聞)

日本関連の軍用機事故・事件 - 町田のたぬちゃん

2014/06/28 (Sat) 22:09:27

List of accidents and incidents involving military aircraft
“japan”で検索 (1945年から2009年まで)――71件
日本海などもふくむ。1964年の大和の事件は記載されていないようだ。

1945
4 June
Aichi E13A "Jake" floatplane, c/n 41116, of 634 Kōkūtai-Teisatsu, 302 Hikōtai, crashed into the sea during night time search mission. Salvaged from waters off Kaseda city, Kagoshima prefecture on 22 August 1992, it is displayed in unrestored condition at the Kasedo Peace Museum, Kyūshū, Japan.[54]


7 July
On the first flight of the prototype Mitsubishi J8M1 Shusui, Japanese derivative of the Me 163B, aircraft reaches 1,300 feet in a steep climb, then the rocket motor cut out, airframe crashing at Yokosuka Naval Aeronautical Engineering Arsenal. Cause believed either hydrogen peroxide shifting to rear of partially empty tank, or air leak in fuel line causing blockage. Pilot Lt. Cdr. Toyohiko Inuzuka dies in hospital the next day. A redesign of the fuel system follows, but no additional flights made before Japanese capitulation in August.[65]

11 August
First of only two Nakajima Kikka twin-jet fighters, completed on 25 June, first flown 7 August for eleven minutes by Lt. Cdr. Sasumu Tanaoka out of Kisarazu Naval Air Base, crashes on second flight this date. Second unflown Kikka is shipped to the United States after the Japanese capitulation.[93]

18 August
Last U.S. air combat casualty of World War II occurs during mission 230 A-8, when two Consolidated B-32 Dominators of the 386th Bomb Squadron, 312th Bomb Group, launch from Yontan Airfield, Okinawa, for a photo reconnaissance run over Tokyo, Japan. Both bombers are attacked by several Japanese fighters of both the 302nd Air Group at Atsugi and the Yokosuka Air Group that make 10 gunnery passes. Japanese aces Sadamu Komachi and Saburo Sakai are part of this attack. B-32 piloted by 1st Lt. John R. Anderson, is hit at 20,000 feet, cannon fire knocks out number two (port inner) engine, and three crew are injured, including Sgt. Anthony J. Marchione, 19, of the 20th Reconnaissance Squadron, who takes 20 mm hit to the chest, dying 30 minutes later. Tail gunner Sgt. John Houston destroys one attacker. Lead bomber, Consolidated B-32-20-CF Dominator, 42-108532, "Hobo Queen II", piloted by 1st Lt. James Klein, is not seriously damaged but second Consolidated B-32-35-CF Dominator, 42-108578, loses engine, has upper turret knocked out of action, and loses partial rudder control. Both bombers land at Yontan Airfield just past ~1800 hrs. after surviving the last air combat of the Pacific war. The following day, propellers are removed from Japanese aircraft as part of surrender agreement. Marchione is buried on Okinawa on 19 August, his body being returned to his Pottstown, Pennsylvania home on 18 March 1949. He is interred in St. Aloysius Old Cemetery with full military honors.[97] B-32, 42-108578, will be scrapped at Kingman, Arizona after the war.[98]

2 October
A U.S. Navy Martin PBM-5E Mariner flying boat, BuNo 59336,[112] of VPB-205, carrying Rear Admiral William Sample, commander of Carrier Division 22, and eight others disappears near Wakayama, Japan while on a familiarization flight. The wreckage and their bodies will not be discovered until 19 November 1948.[113]

1947
29 May
An Army Douglas C-54D-5-DC Skymaster courier plane, 42-72553, c/n 10658,[172] of the 6th Troop Carrier Squadron, 317th Troop Carrier Group, 5th Air Force,[166] with 33 passengers and eight crew on board crashes into a mountain SW of Tokyo, Japan. An Army announcement said that it had not been determined whether or not there were any survivors.[173] A revised count reported that there were 40 aboard the C-54, 28 enlisted, eight officers, and four civilians, all killed in the crash. They were reported to be burned beyond recognition. The flight, inbound from Korea, had apparently exploded as it approached Tachikawa Airfield for a landing.[174]

1948
3 September
The only Silverplate Boeing B-29 Superfortress to be part of the strike package on both atomic missions over Japan, Boeing B-29-40-MO Superfortress, 44-27353, "The Great Artiste", of the 509th Composite Group, deployed to Goose Bay Air Base, Labrador for polar navigation training, aborts routine training flight due to an engine problem, makes downwind landing, touches down halfway down runway, overruns onto unfinished extension, groundloops to avoid tractor. Structural damage at wing joint so severe that Superfortress never flies again. Despite historic significance, airframe is scrapped at Goose Bay in September 1949.

Jump up ^ "A Japanese rara avis...The Giken Fighter", Air International, Bromley, Kent, UK, May 1977, Volume 12, Number 5, pp.254–255 .
Jump up ^ Stamford, Lincs., UK: FlyPast, Werneth, Ron, "Exploring the Warbirds of Japan", February 2000, Number 223, pp.91–92.
1950
26 September
USAF Douglas C-54D-1-DC Skymaster medical aircraft, 42-72457, c/n 10562, of the 6th Troop Carrier Squadron, 374th Troop Carrier Wing, from Tachikawa Air Base, Japan, crashes in the Korea Strait, one mile from the end of the runway after taking off from Ashiya Air Base, Kyushu, killing 23 of 51 on board.[44]

1952
6 August
A fire breaks out on the hangar deck of the USS Boxer at ~0530 hrs. when a fuel tank of a Grumman F9F Panther[143] catches fire while the ship is conducting combat operations in the Sea of Japan. The blaze is extinguished after a four to five hour fight. The final total of casualties was determined to be: 8 dead, 1 missing, 1 critically injured, 1 seriously burned and some 70 overcome by smoke. Of the 63 who had gone over the side, all were rescued and returned to the Boxer by helicopters and ships of Task Force 77.[143] Eighteen aircraft, mostly Grumman F9F-2 Panthers, were damaged (by fire and saltwater) or destroyed.[144]

8 August
Whilst on a night ASW patrol flight, a U.S. Navy Martin PBM Mariner, crashes on Shikoku Island, Japan. The entire crew, including five officers and nine enlisted men, are KWF.[143]

29 December
A U.S. Navy Martin PBM-5 Mariner aircraft of Patrol Squadron 47 (VP-47) crashes in the Sea of Japan whilst on anti-submarine patrol, killing ten members of the crew of fourteen.[143]

1953
18 June
A United States Air Force Douglas C-124A Globemaster II, 51-0137, c/n 43471, crashes at Kodaira, Japan after engine failure on take-off at Tachikawa Air Force Base, Tokyo, Japan. 129 die, making this the deadliest recorded disaster in aviation history at the time.[184]

1954
12 October
USAF North American F-100A-1-NA Super Sabre, 52-5764, c/n 192-9,[254] crashes at Edwards Air Force Base, California, at 1100 hrs., killing North American test-pilot Lt. George Welch, a veteran of the Japanese Navy attack on Pearl Harbor in 1941.[255] During terminal velocity dive test from 45,000 feet (14,000 m), aircraft yaws to starboard, then begins roll. Airframe breaks up under 8 G strain, pilot falls clear, chute opens, but he sustains fatal injuries, dying shortly after reaching the ground.[256]


184 Jump up ^ Topics - Airplane Crashes - Globemaster, Japan. Korean War Educator. Retrieved on 2010-11-25.
1956
10 September
Boeing B-50B-45-BO Superfortress, 47-133, c/n 15817,[126] modified as RB-50G with additional radar and B-50D-type nose, of the 6091st Reconnaissance Squadron, out of Yokota Air Base, Japan, disappears over Sea of Japan. Probably went down in Typhoon Emma.[127]

1957
21 March or 22 March
A United States Air Force Boeing C-97C-35-BO Stratofreighter, 50-0702, c/n 16246, lost at sea over Pacific Ocean near Japan without trace. 67 died.[157] (Joe Baugher lists fatalities as 70.) This remains the worst C-97 accident.

4 June
World War II Japanese ace Maj. Teruhiko Kobayashi (1920–1957), flying with the reconstituted Japanese Self-Defense Air Force, is killed in the crash of a Lockheed T-33A Shooting Star during a training flight when he crashes in bad weather on approach to Hamamatsu Air Base. He ordered his back-seater to eject when the aircraft developed problems. He had shot down three Boeing B-29 Superfortress bombers and two Grumman F6F Hellcats with the 244th Sentai, although his widow claimed he had twice the number of Superfortress kills, a claim discounted by historian Takashi Sakurai.[165]

1958
24 January
"FUCHU, Japan (AP) - Three U.S. Air Force F84G jet trainers [sic] crashed into the sea tonight after takeoff from Iwakuni air base,[sic] western Japan. The bodies of the three pilots, whose names were withheld, had not been located five hours later, the Air Force said. The planes, from the 418th Fighter Training Squadron, Misawa Air Base, were on a training flight. 'Engines of all three aircraft appeared to flame out almost simultaneously on takeoff. The planes hit the water about 1,000 feet from the end of the runway,' the Air Force said."[222] According to Joe Baugher, F-84G-20-RE, 51-1237, had a mid-air collision with flight mates F-84G-25-RE, 51-1300 and F-84G-25-RE, 51-1312, during the takeoff sequence.[47]

7 March
A USMC Fairchild R4Q-1 Packet transport, BuNo 128741, c/n 10570, crashes in the Pacific Ocean off Naha, Okinawa while returning from Naval Air Station Cubi Point to Atsugi, Japan.[273] The R4Q was being accompanied by a Douglas AD-6 Skyraider, BuNo 135350, both aircraft an instrument approach into Naha AFB. Apparently the AD-6 had communication or navigation problems and elected to fly wing on the R4Q during the approach. Both planes collided and crashed in the Pacific Ocean, 5 km. from the base. Seven crew and 19 passengers on the transport were KWF, as was the Skyraider pilot.[274]

9 May
A USAF North American F-100F-10-NA Super Sabre, serial number 56-3810, crashed 8 miles (13 km) NNE of Kadena Air Base, Japan. Instructor/test pilot Capt. Theodore Christos and rear seat pilot Capt. James Looney ejected but were killed. Crash Investigation Board report indicated cause of crash was undetermined.[citation needed]

1959
4 February
USAF Boeing WB-50D Superfortress, 49-0343, weather reconnaissance aircraft, assigned to 59th Weather Reconnaissance Squadron at Kindley AFB Bermuda was lost on weather track over Atlantic with 12 killed. Crash was observed by a Japanese freighter about 2 hours after takeoff.[334]

20 May
A USAF Lockheed C-130A Hercules 57-0468, c/n 3175 overshot the runway at Ashiya AB, Japan . The pilot tried to pull up, but the C-130 crashed into Air Force barracks. 9 fatalities.[339]

24 September
A Lockheed U-2C, 56-6693, Article 360, of the SAC's 4028th Strategic Reconnaissance Squadron (SRS), Detachment C, out of Atsugi Air Force Base, Japan, and clandestinely operated by the CIA, runs out of fuel and pilot Tom Crull makes an emergency landing at the civilian airfield at Fujisawa, damaging belly. The black-painted aircraft with no identity markings attracts curious locals, and officials and military police are quickly dispatched to cordon off the area. This they do at gunpoint, which attracts even more attention and pictures of the highly secret U-2C soon appear in the Japanese press.[302] Factory repaired and assigned to Det. B, this is the airframe that pilot Francis Gary Powers will be shot down in on 1 May 1960. The 20th U-2 built, it was delivered to the CIA on 5 November 1956. Used for test and development work from 1957 to May 1959. Converted to U-2C by 18 August 1959.[355]

1. 165Jump up ^ Sakaida, Henry, "Japanese Army Air Force Aces 1937-1945", Osprey Publishing, Botley, Oxford, UK, 1997, ISBN 978-1-85532-529-6, page 75.
2. 222Jump up ^ Associated Press, "Three U.S. Jets Crash In Japan", The Charleston Evening Post, Charleston, South Carolina, Saturday 25 January 1958, Volume 64, Number 99. page 7-B.
3. 342Jump up ^ "ひまわり" [Himawari] (in Japanese). "Himawari Okinawa wa Wasurenai Ano hi no sora o" Seisaku Iinkai. 2012. Retrieved Dec 18, 2012.

1962
24 May
USAF Douglas C-124A-DL Globemaster II, 51-0147, c/n 43481, on local training flight out of Tachikawa Air Base, Japan, strikes Oku-Chichibu Mountains, killing seven crew.[74][75]

1964[edit]
2 January
A USAF Douglas C-124C Globemaster II, 52-968, c/n 43877, of the 28th Air Transport Squadron,[124] en route from Tachikawa Air Force Base near Tokyo, Japan, to Hickam Air Force Base, Honolulu, Hawaii with nine on board and 11 tons of cargo, disappears over the Pacific Ocean after making a fuel stop at Wake Island. Due at Hickam at 0539 hrs. EST, the Globemaster II is last heard from at 0159 hrs. EST. Fuel exhaustion would have been at 1000 hrs. EST and the aircraft is presumed down at sea. An automatic SOS signal is detected emanating from an aircraft-type radio with a constant carrier frequency of 4728 kilocycles, issuing an automatically keyed distress message, and a dozen aircraft of the Air Force, Navy and Coast Guard are sent to search from Hickam and from Guam, Midway, and Johnston Island.[125] Poor weather and limited visibility hampers search efforts.[126] The U.S. Navy's USS Lansing also participates in the search.[127] The eight missing Air Force crew and one U.S. Navy man escorting a body back to the U. S. are officially declared dead on 21 January.[128] This was the first C-124 accident since May 1962.[129]

5 April
Main article: 1964 Machida F8 crash
A United States Marine Corps RF-8A Crusader, BuNo 146891,[147] returning from Kadena Air Base, Okinawa to its home base of Naval Air Facility Atsugi, Kanagawa Prefecture suffered a mechanical malfunction and crashed into a residential neighborhood in Machida, Tokyo, Japan. The crash killed four people and injured 32 others on the ground. The pilot, Captain R. L. Bown, of Seattle, Washington, successfully ejected at 5,000 feet, landed on a car, suffered only bruising. Japanese media questioned why Bown was not able to steer the aircraft away from the residential area before ejecting.[148]

Yamato—欠

1965
5 December
Douglas A-4E Skyhawk, BuNo 151022, of VA-56 on nuclear alert status, armed with one Mark 43 TN nuclear weapon,[181] rolls off of elevator of aircraft carrier USS Ticonderoga (CVA-14), in the Pacific Ocean. The Skyhawk was being rolled from the number 2 hangar bay to the number 2 elevator when it was lost.[182] Airframe, pilot Lt. D.M. Webster, and bomb are lost in 16,000 feet of water 80 miles from one of the Ryukyu Islands in Okinawa.[36][183] Webster, from Warren, Ohio, was a 1964 graduate of the Ohio State University.[184] No public mention was made of the incident at the time and it would not come to light until a 1981 Pentagon report revealed that a one-megaton bomb had been lost.[185] Japan then asks for details of the incident.[186]

1967
3 August
A USAF de Havilland Canada C-7B Caribou, 62-4161, c/n 99, 'KE' tailcode, of the 459th TAS, 483d TAW, plunges to earth minus its tail from low altitude after being hit by US 155 mm artillery "friendly fire" on approach to Duc Pho Special Forces camp, Vietnam. Three crew killed, pilot Capt. Alan Eugene Hendrickson, co-pilot John Dudley Wiley, and loadmaster TSgt. Zane Aubry Carter. Dramatic photo of plunging aircraft taken by Japanese combat photographer Hiromichi Mine, who was himself killed in the line of duty 5 March 1968 from injuries suffered from a landmine.[231]

1968

7 April
A Mitsubishi-assembled, from Sikorsky components, Sikorsky HSS-1N Seabat, 8567, c/n 58-1528, of the Japanese Maritime Self-Defense Force, crashes, the sole loss of the type during Japanese service.[271]

15 April
Main article: 1969 EC-121 shootdown incident
North Korean Mikoyan-Gurevich MiG-17s shoot down a Navy Lockheed EC-121M Warning Star, BuNo 135749, 'PR 21', c/n 4316, of VQ-1, call sign Deep Sea 129, over the Sea of Japan, killing all 31 aboard.[272] See EC-121 shootdown incident. KWF are pilot L/Cdr. James H. Overstreet; Lt. John N. Dzema; Lt. Dennis B. Gleason; Lt. Peter P. Perrottet; Lt. John H. Singer; Lt. Robert F. Taylor; Lt.JG Joseph R. Ribar; Lt.JG Robert J. Sykora; Louis F. Balderman, ADR2; Stephen C. Chartier, AT1; Bernie J. Colgin, AT1; Ballard F. Connors, Jr, ADR1; Gary R. DuCharme, CT3; Gene K. Graham, ATN3; LaVerne A. Greiner, AEC; Dennis J. Horrigan, ATR2; Richard H. Kincaid, ATN2; Marshall H. McNamara, ADRC; Timothy H. McNeil, ATR2; John A. Miller, CT3; John H. Potts, CT1; Richard T. Prindle, AMS3; Richard E. Smith, CTC; Philip D. Sundby, CT3; Richard E. Sweeney, AT1; Stephen J. Tesmer, CT2; David M. Willis, ATN3; and S/Sgt. Hugh M. Lynch, USMC.[273]

1971

30 July
At ~1400 hrs., a Japanese Air Self Defense Force North American F-86F Sabre, 92-7932, collides in mid-air at FL280 with All Nippon Airways Flight 58, a Boeing 727-281, JA8329, on regional flight between Sapporo and Tokyo-Haneda. Student pilot was not watching out for other traffic in the training area, and when the instructor warns him to break away from approaching jetliner, it is too late, the Sabre's right wing striking the 727's left horizontal stabilizer, all seven crew and 155 passengers on the Boeing are killed, wreckage coming down near Shizukuishi. F-86F crew ejects.[338] All Japanese military aircraft are immediately grounded while investigation takes place.[339]

28 September
A USN Lockheed P-3 Orion, on patrol over the Sea of Japan, is fired on by a Soviet Sverdlov class cruiser in international waters. The P-3 was checking a group of Soviet Navy ships cruising off the shore of Japan when crew members reported seeing tracer rounds fired well ahead of the Orion. Immediately following the incident, authorities recalled the P-3 to its base at MCAS Iwakuni, and all surveillance craft were pulled back five miles.[341][342]

19 October
Grumman E-2B Hawkeye BuNo 151721, c/n 41, 'NF 013', of VAW-115,[348] and LTV A-7B-4-CV Corsair II, BuNo 154539, c/n B-179,[287] both from the USS Midway, CVA-41, collide over the Sea of Japan while both were preparing to land aboard, with E-2 crashing near the stern of the carrier, all five crew lost. A-7 pilot ejected safely, picked up by helicopter from MCAS Iwakuni in good condition.[349]

1. Jump up ^ Associated Press (6 April 1964). "U.S. Plane in Japan Kills Four in Crash". New York Times. p. 7.
2. Jump up ^ Washington, D.C.: Washington Post, Reuter, "U.S. Confirms '65 Loss of H-Bomb Near Japanese Islands", Tuesday, 9 May 1989, page A-27.
3. Jump up ^ Washington, D.C.:"Japan Asks Details On Lost H-Bomb", Washington Post, Wednesday, 10 May 1989, page A-35.
1975

21 March
In a tragic error by an air traffic controller, the wrong landing instructions are conveyed to Lockheed C-141A-20-LM Starlifter, 64-0641,[6] of the 62d Military Airlift Wing on approach to McChord AFB, Washington, from Japan, to descend below safe minimums and it impacts on the 5,900-foot level of Warrior Peak in the Mount Constance range in the Olympic National Forest, Washington, killing 16 passengers and crew.[7] The Federal Aviation Administration said that a preliminary investigation showed that a controller gave descent instructions intended for a U.S. Navy Grumman A-6 Intruder en route from Pendleton, Oregon, to NAS Whidbey Island, Washington, to the Military Airlift Command C-141. The two aircraft were both at 10,000 feet, about 60 miles apart. A review of recorded conversations between ATC and pilots showed that the controller - instead of calling "Navy 8323" - radioed"MAC 0641" to descend to 5,000 feet. Sadly, word of the controller's error was received at McChord as memorial services were being conducted for the 10 crew members of the Starlifter. The Navy said that services for the six sailors who were passengers on the flight would be held aboard the ships or stations where they were assigned.[8] The casualties were: USAF - 1st Lt. Earl R. Evans, 28, Houston, Texas; Capt. Frank E. Eve, 27, Dallas, Texas; 2d Lt. Harold D. Arensmen, 25, Irving, Texas, 1st Lt. Stanley Y. Lee, 25, Oakland, California; Lt. Col. Richard B. Thornton, 40, Sherman, Texas; M. Sgt. Robert J. McGarry, 37, Shrewsbury, Missouri; T. Sgt. James R. Campton, 45, Aberdeen, South Dakota; S. Sgt. Peter J. Arnold, 25, Rochester, New York; A1C Robert D. Gaskin, 21, Fremont, Nebraska; Lt. Col. Ralph W. Burns, Jr., 42, Aiken, South Carolina; U.S. Navy - PO1C William Michael Raymond, Coupeville, Washington; Lt. Edwin Wayne Uptegrove, San Diego, California; PO3C Terry W. Howard, Sylmar, California; PO3C John Eves, Ridgewood, New Jersey; CWO Samuel E. Flemming, Alameda, California; and Seaman Donald R. Dickson, Tempe, Arizona.[9]

1977
27 September
Main article: 1977 Yokohama F-4 crash
A United States Marine Corps McDonnell Douglas RF-4B-41-MC Phantom II, BuNo 157344,[71] c/n 3717,[72] 'RF611', of VMFP-2, flown by a USMC crew based at Naval Air Facility Atsugi, en route to USS Midway in Sagami Bay, suffers a mechanical malfunction, the port engine catches fire, and crashes into a residential neighborhood, killing two boys, ages 1 and 3, and injuring seven others, several seriously. The two-man crew of the aircraft, Capt. J. E. Miller, of Mendota, Illinois, and 1st Lt. D. R. Durbin, of Natchitoches, Louisiana, eject and are not seriously injured.[50] The crash destroys several houses. The boys' mother is also severely burned. Due to the fear that she may be adversely affected during her recovery by the shock, she is not told until 29 January 1979, that her sons have died. The mother dies in 1982, aged 31, of complications from her injuries.

1982

13 October
A JASDF McDonnell-Douglas F-4EJ Phantom II, 47-8343, crashes into the Sea of Japan near Komatsu, Ishikawa Prefecture, Japan.[68]
14 November
A Mitsubishi T-2B, 19-5174, of the Blue Impulse (or 11 Squadron) air demonstration team of the Japanese Air Self-Defense Force fails to pull out of a descending bomb-burst manoeuvere following a formation loop, crashes into civilian house, Takaoka Town, Hamamatsu City, Shizuoka Prefecture, N of Hamamatsu Air Base, during base's 30th anniversary air show, killing pilot Capt. Takashima Kiyoshi. Thirteen civilians injured, 28 civilian houses and about 290 cars damaged.[69][70] Footage: http://www.youtube.com/watch?v=j3-m8tIf97A&feature=related

1983
20 October
Japanese Air Self Defense Force McDonnell-Douglas F-15DJ Eagle, 12-8053, of the 202 Hikōtai, crashes into the Pacific Ocean 110 miles E of Nyutubaru Air Base, Japan, during low altitude night flying training.[84]

1987
13 March
Japanese Air Self Defense Force Mitsubishi F-15J, 42-8840, of the 204 Hikōtai, crashes into the sea 100 miles E of Hyakuri Air Base, Japan, following suspected spatial disorientation. Pilot KWF.[84]

1992
15 January
Lockheed U-2R, 68-10332, Article 054 of the 9th SRW crashed into the Sea of Japan off the Korean coast this date while on flight out of Osan Air Base, South Korea, pilot Capt. Marty McGregor killed. This was the first of five U-2 losses (and four pilots) suffered by the newly formed Air Combat Command in its first five years. Prior to the ACC takeover, there had been no Class A mishaps in the previous eight years. A team of six old U-2 hands, known as the "Graybeard panel," was assembled by ACC to examine the problem.[52]

1995

22 November
A Japanese Air Self Defense Force Mitsubishi F-15J, 02-8919, of the 308 Hiko-tai is accidentally shot down by an AIM-9L Sidewinder fired by another JASDF F-15 during air-to-air combat training. The pilot ejects and is picked up safe.[117][118]

2004
29 January
A Boeing F/A-18 Super Hornet crashes into ocean while landing on USS Kitty Hawk (CV 63). The No. 3 arresting wire snapped, resulting in the aircraft plunging into the Pacific Ocean 100 miles SE of Yokosuka, Japan, hitting an SH-60F and an EA-6B Prowler en route to the water. Crew LTJG Jon Vanbragt, LCDR Markus Gudmundsson ejected safely.

2009
28 September
A Japan Maritime Self-Defense Force (JMSDF) NAMC YS-11 a twin-engined turboprop transport crashed while landing at JMSDF Ozuki Air Field in Shimonoseki, Yamaguchi Prefecture, Japan. The landing in light rain, the aircraft suffered an overshoot of the runway and crashed through the airfield perimeter fence, crossing a service road and plunged nose-first into a rice field. The 11 JMSDF crew members of the aircraft were uninjured and the NAMC YS-11 aircraft suffered bent propellers.

転載です - 町田のたぬちゃん

2014/06/27 (Fri) 07:53:46

創価学会広報室の見解全文は次の通り。5月17日

 私どもの集団的自衛権に関する基本的な考え方は、これまで積み上げられてきた憲法第9条についての政府見解を支持しております。
したがって、集団的自衛権を限定的にせよ行使するという場合には、本来、憲法改正手続きを経るべきであると思っております。
集団的自衛権の問題に関しては、今後の協議を見守っておりますが、国民を交えた、慎重の上にも慎重を期した議論によって、歴史の評価に耐えうる賢明な結論を出されることを望みます。

明日、組織的戦闘が終了 - 町田のたぬちゃん

2014/06/22 (Sun) 05:28:44

6月23日に組織的な戦闘が終了したといわれる沖縄戦の犠牲者について、今、集団的自衛権の行使の閣議決定に血眼となっている内閣が、内閣府沖縄振興局 沖縄戦関係資料閲覧室で「概要」として紹介しているのは、次の2行である。

沖縄戦関係資料閲覧室トップページ
• 沖縄戦の概要
この約3~5ヶ月の間の戦闘で亡くなった日本兵及び一般住民の方々は、一般住民約10万人を含め約20数万人といわれています

参考:沖縄県平和の礎リーフレット 他

内閣府沖縄振興局 沖縄戦関係資料閲覧室 03-3502-5026
©The Cabinet Office Okinawa Development and Promotion Bureau



ところが、組織的な戦闘が終了以降、「6月23日から29日の間に行われたいわゆる掃討作戦の戦闘では敵の死者9000人と3800人の捕虜」と米軍側資料に出ている、という。
沖縄戦の経過について
http://okinawasen.nomaki.jp/
沖縄戦と原爆投下との関連も記されている。
原文は
http://www.globalsecurity.org/military/facility/okinawa-battle.htm


沖縄戦の経過について
http://okinawasen.nomaki.jp/
 このページは、アメリカの『GlobalSecurity.org』というサイトの中にある、沖縄戦の経過や死傷者数などについて記述したページ、 『Battle of Okinawa』を日本語に訳したものです。
 アメリカ側からの見方に少しでも触れられればよいと思って作りました。

沖縄戦は太平洋戦線で最大規模の上陸作戦であり、太平洋戦争における最後の主要な軍事行動であった。 多くの船が使われ、多くの兵士が上陸し、多くの物資が輸送され、多くの爆弾が落とされた。そして太平洋での他のいかなる作戦よりも多くの艦砲射撃が陸の目標に対して行われた。沖縄戦の間に、広島と長崎の原爆投下の間に殺されたすべての人より多くの人が死んだ。3万8000人のアメリカ兵が負傷し、1万2000人が死亡、10万7000人以上の日本および沖縄の徴集兵が死亡し、10万人の沖縄の民間人が殺された。

 沖縄戦は太平洋戦争中で最も血みどろの戦いとなった。連合軍の艦船34隻が沈められ、そのほとんどが神風特攻によるものだった。また、368隻の艦船が破損した。艦隊は763機の航空機を失った。 この作戦におけるアメリカ兵の総死傷者数は1万2000人に達し(海軍の死者5000人、海兵隊と陸軍の死者8000人)、3万6000人が負傷した。また、海軍の死傷者数は物凄かった。1人に負傷者に対して5人の死者という海兵隊の比率に対して、海軍は1人の負傷者に対して1人の死者という比率だった。 戦闘によるストレスもまた、多くの精神的な死傷者、つまり前線兵力のひどい損失を引き起こした。また2万6000人以上の非戦闘員が死傷した。沖縄戦では、戦闘での負傷による損失の割合として表される、戦闘によるストレスによって生まれた損害の値は48%であった(朝鮮戦争では20~25%、ヨム・キプル戦争では約30%)。沖縄戦におけるアメリカ軍の損失があまりにひどかったため、米議会は軍の指揮官の行いに対する調査を求めたぐらいだった。人命、時間、物資の点から、沖縄戦のコストが、日本に対して原子爆弾を使用するという6週間後の決定に大きく関わったが、これはもっともなことである。

 日本側の人員の損失は莫大だった:
10万7539人の兵士が死亡し、2万3764人が洞窟の中に閉じ込められたか、または日本兵によって殺された。
1万755人が捕虜となったか、降伏した。
日本軍は7,830機の航空機と16隻の戦闘艦を失った。
沖縄の住民の多くが洞窟に逃げてその後死亡したので、民間人の死傷者の正確な数はおそらく決してわからないが、低く見積っても4万2000人が殺された。
民間人のほとんど3分の1が沖縄戦で死亡したという推計もあるが、民間人の10分の1から4分の1が死亡した。
作戦の計画段階における米軍の記録によると、沖縄にはおよそ30万人の民間人が住んでいると推定されていた。そして戦闘終了時にはおよそ19万6000人の民間人が残っていた。しかし、米軍は、82日間の軍事作戦で、艦砲射撃、空襲、および日本軍によって強制的に動員されて死傷した人々を含み全体で14万2058人の民間人が死傷した、と結論付けた。

 1945年4月までには、ヨーロッパ戦線におけるドイツの抵抗は崩壊寸前だったが、大日本帝国は、アメリカの優位に対して太平洋で挑戦的に抵抗し続けた。日本のおよそ400マイル南に位置している沖縄は戦略上、日本の海上補給路を断ち、南方の貴重な資源の産地から隔離することを連合軍に可能にさせた。もし日本本土への進攻が必要であると判明したなら、上陸作戦に必要な船、軍、航空機、および物資を供給するのに沖縄の港や空港を使用することができた。沖縄はいくつかの日本の空軍基地と、2つの堅固な港を台湾と九州の間に持っていただけだった。

 1930年代の中国での戦争の勃発は初めのうち、日本の九州から台湾へと南西に連なる琉球諸島の住民にほとんど影響を与えなかった。およそ480平方マイルの面積と50万人程の人口にもかかわらず、沖縄には余剰食糧も日本の努力を支える産業もなかった。また沖縄の港湾施設は大型軍艦には不適当だった。戦争に対する島の主な貢献は、魚雷とエンジンのための準アルコールに変換することができるサトウキビ産業だった。

 アジア太平洋戦争の初期から、沖縄は空軍基地のとして、また日本本土の防衛における最前線として強化された。土地と農場は沖縄中で強制的に収用され、日本軍は空軍基地の工事を始めた。

 10月の1944下旬までには、琉球諸島の一つである沖縄は、連合軍によって進攻の対象とされた。「アイスバーグ作戦」とコードネームを付けられたこの進攻では今までで最も大規模な海軍の艦隊の集合を見ることになった。レイモンドA.スプルーアンス提督の5番目の船隊は40隻以上の航空母艦、18隻の戦艦、200隻の駆逐艦、および何百隻ものさまざまなサポート船を含むことになっていた。
およそ1300隻の米艦隊が島を囲み、そのうち、365隻は上陸艇だった。18万2000人以上の軍隊が1945年4月1日、イースターの日曜日に攻撃を開始することになった。1944年9月29日、B-29爆撃機は沖縄とその近くの島で最初の偵察飛行を行った。1944年10月10日には、ハルシー提督のおよそ200機の爆撃機が、沖縄の主要都市である那覇に5回にわたって空襲を行い、那覇の街はほぼ完全に壊滅した。アメリカの日本との戦争は、容赦なく日本の本土に近づいていった。

 1945年の3月中旬、1,300隻以上の艦船からなるの米艦隊が、海軍による爆撃のために沖縄沖で集まった。沖縄における軍事行動での最初の神風特攻は1945年3月18日に始まり、 3月21日、最初の自爆ロケット弾が、日本の一式陸攻爆撃機の下に取り付けられた。
 1945年4月1日に6万人の軍隊(海兵隊2師団と陸軍2師団)が、ほとんど反撃のない状態で上陸して進攻は始まった。そしてその日は一日中、今まで上陸作戦を援護するために行われたもの中で最も激しい海軍の集中砲火が続いた。「USSテネシー」、「メリーランド」、「ウェストヴァージニア」など、真珠湾攻撃で沈没を免れた戦艦を含む10隻の古い戦艦と、9隻のクルーザー、23隻の駆逐艦、護衛駆逐艦、および117隻のロケット砲艦が海岸近くに集結し、最初の24時間で3800トンの砲弾を沖縄に向けて発射した。 沖縄の人々は長い間、島を横断するひどい台風の中に身をおいてきたが、彼らは「鉄の暴風」(storm of steel)を経験したことはなかった。沖縄県民は島への進攻を「鉄の暴風」と呼んだ。8時30分に、第24軍団の第7と第96歩兵師団、および第3水陸両用軍団の第1と第6海兵師団は北谷・読谷海岸を横切った。最初の1時間で1万6000人の上陸部隊が反撃のない状態で上陸し、日暮れまでに6万人以上が上陸した。

 沖縄は10万以上の軍によって強力に守られていたが、日本軍は水際作戦を行わないことを選んだ。この4月1日の無血上陸は、連合軍の圧倒的な火力に対して海岸を防御すると発生する死傷者を出さないための、総合的な日本の戦略の一部であった。 縦深防御のシステムは特に島の南部で、牛島司令官の率いる日本の第32軍の10万人が、アメリカ軍の上陸部隊と海軍の艦隊の両方を危険な状態に置くような、延長された戦闘を行うことを可能にした。日本軍は連合軍の海軍と空軍の優れた能力を無効にしようとして、海岸から離れた高地の洞窟やトンネルに入った。

 戦闘は4つの段階で進んだ。1番目、東海岸への進軍(4月1~4日)。2番目、島の北部の(4月5~18日)。 3番目、離島の占領(4月10日~6月26日)。そして、4番目、4月06日に始まって6月21日まで続いた、地下に潜った第32軍の小部隊との戦闘。最初の3つの段階は穏やかな抵抗に遭っただけだったが、最後の段階は日本人がうまく洞窟に身を隠し、海軍の艦砲射撃が役に立たなくなったため、非常に困難なものとなった。

 4月6から7日かけて、大日本帝国のシンボルにちなんだ「菊水」と呼ばれる何百機もの神風特攻機の使用が始まった。沖縄戦の終わりまでに1465機の神風特攻機が九州から飛ばされ、30隻の米軍の艦船を沈め、164隻を破損した。日本軍は高速モーターボートに高性能爆弾を積んで米艦隊を攻撃させる計画を考案した。ボートは、レールに乗せて洞窟の中に引っぱりあげて隠された。しかし、この計画は実行されることはなかった。
 それまでに造られた中で最も大きい日本の戦艦「大和」が、軽巡洋艦「矢矧」と8隻の駆逐艦を伴って、1945年4月6日に航空機による援護なしで沖縄に派遣された。日本の艦隊はこのときまでに燃料の蓄えをひどく使い果たしていたため、「大和」は沖縄までの片道分の燃料だけを積んでいたと伝えられている。「大和」の任務は、沖縄本島に突撃、艦を座礁させて砲撃を行い、戦闘から脱落するまで戦うことだった。しかし、米軍の潜水艦「ハックルバック」は「大和」の動きを追跡して、空母に搭載された爆撃機に警告した。 それを受けたマーク・ミッチャー中将は4月7日の午前10時に空襲を開始した。「大和」への最初の爆撃は艦載機「ベニントン」によってなされた。空母「サンジャシント」の艦載機は爆弾と魚雷で駆逐艦「浜風」を沈めた。軽巡洋艦「矢矧」は爆弾の直撃を受けて沈んだ。次の2時間、日本軍は継続的な攻撃にさらされた。
「大和」は2時間のうちに、12個の爆弾と7つの魚雷の命中を受け、最終的に爆発し撃沈した。共にいた3隻の駆逐艦もひどく破損していたので沈むしかなかった。また4隻の残っている駆逐艦も日本に戻ることはできなかった。「大和」の2747人の乗組員のうち、23人の将校と246人の下士官兵以外、全ての命が失われた。 「矢矧」は446人、「朝霜」は330人を失い、他の7隻の駆逐艦は391人の将校、乗組員を失った。
日本軍の生存者はほとんどいなかった。米軍の損失は10機の航空機と12人の乗組員だった。そしてこれが太平洋戦争最後の日本軍の海での軍事行動だった。

 4月19日までに、バックナー中将率いる米第10軍の陸軍と海兵隊は、首里防衛線の外側の強化された前線で激しく戦った。この戦いは、始めの無血上陸とこれまでの数週間の急速な進軍とはまったく違ったものであった。首里の砦は、石灰岩の洞窟の奥深くに造られ、様々な種類の火器を持ち、相互に援護できる位置にあった。戦いが長引くに従って、アメリカ軍の死傷者数は増えた。約1600隻の艦船が敵の激しい空襲にさらされていたので、島を手に入れる過程での遅れは海軍司令官の間に大きな驚きを与えた。日本軍の攻撃で起きた損害のほとんどが、多くの航空機で恐ろしい神風攻撃を行う「天号作戦」によるものだった。
   シュガー・ローフ、チョコレート・ドロップ、コニカル・ヒル、ストローベリー・ヒル、シュガー・ヒルなどの作戦名で陸軍と海兵隊が首里城を強襲するたびに、米軍の損害は増えた。沖縄での戦闘の間に米軍は、片方は痛ましく、もう一方は喜ばしい、劇的な2つのニュースを知らされた。ひとつは4月12日のフランクリン・ルーズベルト大統領の死であり、もうひとつは5月8日のナチス・ドイツの降伏であった。

 5月の終わりまでには、死守されていた斜面と道路を、沼地に変えた雨季の雨が、戦術および医療の状況を悪化させた。地上の進軍は、負傷兵の後方への撤退を、泥沼や氾濫した道路に妨げられて軍隊が大いに苦戦した、第一次世界大戦の戦場に類似し始めた。軍隊は雨で水浸しになった、半分ごみ捨て場、半分墓地のようなところに住んだ。日本人の埋葬されていない死体が泥の中に沈んで腐り、有害なシチューのようになっていた。そのつるつるした斜面を滑り降りた者は誰でも、後でポケットがウジ虫でいっぱいであることを簡単に見つけることができた。

 首里防衛線に対する激しい攻撃は、牛島司令官に、最後の防衛線である南部の喜屋武半島への撤退を決断させた。彼の軍は5月23日の夜に移動し始めたが、米軍の進軍を遅らせ続けるために後衛部隊を残していくことを忘れなかった。移動することができないほど負傷した日本兵は致死量のモルヒネを注射されたか、または死ぬように単に置き去りにされた。6月の1週目までに、米軍は6万2548人を殺した一方、465人の敵軍だけしか捕らえていなかった。 それから戦闘終結までには激しい闘いに2週間と、包囲されたまま断固として抵抗を続ける部隊に対する、爆弾と火炎放射器を使った掃討作戦にさらに2週間かかった。
6月23日から29日の間に行われたいわゆる掃討作戦の戦闘では敵の死者9000人と3800人の捕虜という結果を上げた。日本人の間で、自殺の発生率は戦闘の最後の時期に急上昇した。敵の死者に対する調査がそれを明らかにしたところによると、多くの人が降伏するよりむしろ手榴弾を抱いて、各個人の戦いを終わらせていた。牛島司令官は天皇に対する義務を果たしたと確信して6月16日に儀式的自殺(切腹)をした。

 沖縄戦を終わらせる降伏文書は、1945年9月7日に現在嘉手納空軍基地がある場所で調印された。沖縄で銃撃がやむずっと前に、戦闘部隊のすぐあとに続いて上陸した技術者や建設大隊が、沖縄本島を日本本土への計画された進攻のための主要な基地に作り変えていた。

沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は18万8136人で、沖縄県出身者が12万2228人、そのうち9万4000人が民間人である[3]。負傷者数は不明。アメリカ軍側の死者・行方不明者は1万2520人で、負傷者7万2千。ただし、日本側の死者数は戸籍が焼失したり一家全滅が少なくないなどの事情により全面的な調査は行われていないため、実数はこれを大きく上回るという指摘がある。それによれば死者は20万人を超え、未だに数多くの遺骨が見つかっていない。
沖縄戦【ウィキペディア】

転載です - 町田のたぬちゃん

2014/06/14 (Sat) 19:54:55

内閣総理大臣 安倍晋三 殿

2014年6月  日    
団体名           
           代表者           
住 所           

<要請書>
集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈変更の閣議決定は断じて容認できません


安倍首相は、今国会期間中に、憲法の解釈変更について閣議決定することを指示した。集団的自衛権の行使とは、日本が攻撃されていないのに自衛隊員が武力攻撃に参加させられ、自らの生命を危険に曝しながら、外国人の生命を奪うことに外ならないものであり、歴代政府は憲法9条の下で行使できないとしてきた。ところが安倍首相は、正当な手続きを経ることなく、私的諮問機関からの報告のみをお墨付きとして、閣議決定によって憲法解釈を変更しようとしている。民主主義の破壊であり、国民の主権を踏みにじるものである。
これに対して、自民党内や改憲推進論者からも批判が相次いでいる。世論調査では、解釈変更による集団的自衛権行使容認に対して、反対55%、賛成29%、憲法改正の手続きを踏まず、内閣の判断で憲法解釈を変える安倍首相の進め方について、適切でない67%、適切だ18%と、圧倒的に閣議決定に反対している。(朝日新聞5月24、25日調査)
集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈変更の閣議決定を行わないことを強く要請する。

以上





自由民主党 御中

2014年6月  日    
団体名           
           代表者           
住 所           

<要請書>
集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈変更の閣議決定は断じて容認できません


安倍首相は、今国会期間中に、憲法の解釈変更について閣議決定することを指示した。集団的自衛権の行使とは、日本が攻撃されていないのに自衛隊員が武力攻撃に参加させられ、自らの生命を危険に曝しながら、外国人の生命を奪うことに外ならないものであり、歴代政府は憲法9条の下で行使できないとしてきた。ところが安倍首相は、正当な手続きを経ることなく、私的諮問機関からの報告のみをお墨付きとして、閣議決定によって憲法解釈を変更しようとしている。民主主義の破壊であり、国民の主権を踏みにじるものである。
これに対して、自民党内や改憲推進論者からも批判が相次いでいる。世論調査では、解釈変更による集団的自衛権行使容認に対して、反対55%、賛成29%、憲法改正の手続きを踏まず、内閣の判断で憲法解釈を変える安倍首相の進め方について、適切でない67%、適切だ18%と、圧倒的に閣議決定に反対している。(朝日新聞5月24、25日調査)
集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈変更の閣議決定を行わないことを強く要請する。

以上





公明党 御中

2014年6月  日    
団体名           
           代表者           
住 所           

<要請書>
集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈変更の閣議決定は断じて容認できません


安倍首相は、今国会期間中に、憲法の解釈変更について閣議決定することを指示した。集団的自衛権の行使とは、日本が攻撃されていないのに自衛隊員が武力攻撃に参加させられ、自らの生命を危険に曝しながら、外国人の生命を奪うことに外ならないものであり、歴代政府は憲法9条の下で行使できないとしてきた。ところが安倍首相は、正当な手続きを経ることなく、私的諮問機関からの報告のみをお墨付きとして、閣議決定によって憲法解釈を変更しようとしている。民主主義の破壊であり、国民の主権を踏みにじるものである。
これに対して、自民党内や改憲推進論者からも批判が相次いでいる。世論調査では、解釈変更による集団的自衛権行使容認に対して、反対55%、賛成29%、憲法改正の手続きを踏まず、内閣の判断で憲法解釈を変える安倍首相の進め方について、適切でない67%、適切だ18%と、圧倒的に閣議決定に反対している。(朝日新聞5月24、25日調査)
集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈変更の閣議決定を行わないことを強く要請する。

以上


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